インターネット講座 -(1)-
もとの桃になって流れていった桃太郎
(小矢部の伝説)



 むかし、むかし、ずうっとむかしの話。 ある山の村に爺さまと婆さま が住んでいらっしゃったとぉ。

 春のある日、お天気がよかったので、爺さまは山へ柴刈りに行き、 婆さまは家の前の川で洗たくをしとったとぉ。すると、川上のほうから でっかい桃がどんぶりこ、どんぶりこと流れてきた。婆さまはそれを 拾い上げて、家に帰り、爺さまの帰りを待っとったとぉ。

やがて、お昼近くになって、爺さまがもどっていらっしゃた。婆さま はにこにこ顔で桃を見せて、爺さまに切ってもらって、食べることにし た。爺さまが包丁で切ったところ、桃の中からかわいらしい赤ちゃん が、「じいちゃん、ばあちゃん」といって生まれ出た。二人はびっくりし たが、子どもを持っていなかったので、育てることにしたとぉ。

  桃から生まれたので、桃太郎と名づけて大切にして育てたところ、 一年たち、二年たち、だんだん大きくなっていった。十五年たったら、 立派な若者になり、家の仕事の手伝いをするようになり、爺さまと婆さ まは大そう喜んだとぉ。

  あるとき、爺さまと婆さまが、京都の本願寺へお参りして、京都との 名所見物をすることになった。すると桃太郎は、年寄りの二人だけで 旅だたせることを心配して、いっしょに連れだって行くことにした。

  だいたい、七、八日かかって京都についた。さっそく本願寺に参り、 その晩は宿屋に三人で泊まった。

  そのつぎの日、親子仲よく、京都御所をはじめ金閣寺、 銀閣寺を 見物してまわった。 お昼ごろ、 鴨川の三条の大橋で休み、東山三十 六峰をながめて、欄干によりかかっておやつを食べていたところ、どう したはずみじゃったやら、桃太郎が橋から、どぶんと、鴨川の流れに 落ちてしまった。爺さまと婆さまが、びっくりぎょうてんして見ていた ら、桃太郎はもとの桃になって、どんぶらこ、どんぶらこと、下のほう へ流れていくのだった。

 二人は大声あげて、
「 桃太郎やあい 、桃太郎やあい」
と何べんも呼びつづけたが、とうとう海のほうへ流れていってしもたと とぉ。

 語ってそうろう。


桃太郎は吉備地に実在した。

 吉備国は日本国中で唯一、古くから昔話桃太郎の鬼退治物語発祥 の地であり、その源でもある。吉備国で、昔から言い伝えられている 伝説どおり正真正銘の日本一の桃太郎が実在した。
 その正真正銘の日本一の桃太郎は誰か。
    桃太郎 −−−福武三郎兵衛藤原元信
    鬼    −−−凶悪非道の群盗団

−首領は吉備地の里清水村生まれで、高位中納言のご落胤と自称 して威勢を張っていた五郎兵衛である。鬼どもの本拠は今も吉備地 の里に現存する。総社市にある海抜403メートルの鬼ノ城である.こ の鬼の城は戦国時代末期に近くの経山城の砦として利用されてい た。

 波乱万丈のドラマである桃太郎の鬼退治が行われたのは、江戸時 代初期、徳川3代将軍家光が没した慶安4年(1651)の頃である。

 日本一の桃太郎福武三郎兵衛藤原元信に至るまで、本姓藤原氏 から児玉氏となり、更に福武氏と改めた桃太郎一族の変遷の歴史の 流れを読者に判りやすく理解させるために、桃太郎の鬼退治物語を まとめた江戸時代の赤本屋黄表紙の作者が、一筋の歴史川という川 の流れにたとえて表現したのであって、いわゆる河川でない。

 その歴史川の流れに乗って流れてきた大桃に喩えられたのは、毛 利 元就の軍師であり、軍奉行として毛利家全軍を采配指揮して勝ち進 み元就を中国の雄と成らしめた軍略の大家、安芸阿良井山城主児島 対馬の守三郎右衛門就忠であった。

 関白藤原道隆の嫡男、内大臣藤原伊周公より続く家系と、武蔵7党 の雄、児島党という武門の出で、毛利元就側近第一の重臣であり、 毛利家5代奉行の一員でもある大物の大将児島対馬守が、大正3年 1575年備中松山大合戦のとき芸州勢を指揮して松山城を攻略後備 中幸山城主となって吉備地の里を領して土着したことを、大物(大桃) が流れてきたと当時の赤本の作家が喩えたのである。

桃太郎は明治20年に始まる小学校教科書内の桃太郎の挿絵をはじ め絵本類から商品の表紙絵、又岡山駅前にある銅像にいたるまで、 扮装は一貫して江戸時代初期の姿であり、古代人の姿になったこと は一度もない。


鬼のすべて


 鬼といわれるものの正体はすべて人間である。
 人間でありながらなぜ鬼に変化するのだろうか。それは打ち続く戦 乱による荒廃、悪政による世情不安が原因である。
 吉備に初めて鬼が発生したのは、関ヶ原合戦後のことである。

鬼その1

 関ヶ原の戦いは天下分け目の戦いといわれた。日本各地の武将 らにとっては、自らの運命を賭けた戦いとなり、東西軍どちらかに属し 関ヶ原に集結した。
 戦力がほぼ対等の立場にあった東西両軍の流れを変えたの は、 西 軍に属していた小早川秀秋が、戦いの途中から突如東軍 の徳川家 康に寝返るという裏切り行為によってであった。
 このため、西軍は総崩れとなり完敗した。
 この裏切りによって、備前岡山城主であり、57万石の大名、宇喜多 秀家の命運も変わった。
 西軍総督の立場から、一変して落武者の運命となった。
 思いもよらぬ裏切り者秀秋に対する遺恨の念は宇喜田秀家従に とって骨髄にたっしていたのである。
 裏切り者の張本人小早川秀秋は九州筑前35万石から西軍を裏っ た恩賞として、宇喜田の旧領地岡山51万石を領して入城した。
 関ヶ原の合戦に破れ、落ち武者として命からがら岡山へたどりつい た 宇喜田の旧臣達が、関ヶ原の恨みをはらさんものと画策して秀秋の 命と失脚を狙って一団を結成した。これが鬼と恐れたれた吉備の鬼 の発生の経緯である。

 やがて秀秋は領内や城下を宇喜田の残党の群党団によって撹 乱されていることを知ると生命の危機感を強くいだいた。
 それら宇喜多の残党の暗躍が錯乱の起因となったのか、秀秋 の行動は次第に常軌を逸する狂乱的なものとなって現れだした。
 そして領主となって2年後、慶長7年(1602)錯乱狂態の内没し た。

鬼その2

 秀秋は岡山城主となって2年後わずか23歳で急逝した。



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